人生訓(先人の教え)

 生き方を考えていくとき、先人の教えは貴重なものであると考えませんか?

 親父は60歳のころ何を考え、どのような生き方を考えていたのだろうか?

 人生100年時代、終活を語る際生き方、あるいは人生の目標立てを行うことはとても大切なことであると思います。そして、先人の教えがあると目標も立てやすくなります。

 2007年の正月、埼玉県幸手市在住の叔父、叔母を尋ね叔父の人生訓をもらいました。同時にいくつかの自筆の書をもらいました。

 私は定年後、自分の机の周りを片付けているとその書が出てきました。

 教師でもあり、書家でもあった叔父の言葉を20回に分けて紹介します。

 

 令和元年9月1日

    黒田 尚

20.事なかれ主義(最終章)

 いよいよ叔父の人生訓は最終章となります。

叔父が他界した2007年のお正月に訪問した際に頂いた書が「創造」でした。

当時私は次のステップに進もうと悩んでいました。この書に勇気をもらいました。

さて、最終章は「事勿れ主義」というメッセージです。

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 最近、事なかれ主義の経営という言葉がささやかれている。事なかれれの内容を考えると、波風の立たぬところは事なかれ主義として評価されがちである。波風が立つのは何か問題を抱えているからだ。

 その問題も許容しがたきものと、取るに足らぬものがある。

 放っておけない問題を等閑(トウカン:ものごとをいい加減に見過ごすこと)に臥すことが事勿れであって、最近は取るに足らぬ問題まで取り立て、問題が問題を生んでいる世の中である。

 


19.論文作成に思う

 確かに論文を書くためには、下記慣れる事が大事である。しかし、私は受験のため、論文の形式のみにとらわれ、書く練習に没頭する姿を見ることはやるせない。形式よりも内容である。内容は自己を啓発して初めて豊かなものになる。毎日の生活が自己啓発の場でもある。

 同じ事象に触れても、その人その人によって感じ方や受け取り方が異なる。教育者としての立場で見る場合と、会社員としてみる場合とでは、その差は甚だしいもにのになる。

 電車の中などで、若いものの傍若無人の態度を見ても、あるものは教育的立場で思慮し、教育のあるべき姿を次から次へと連想するであろう。又あるものは傍観するだけでうとましいというものもあろう。私はここが自己を深めるか否かの境であるように思う。草木を見ても様々の事が感じとられる。感じたことを更に追求し掘り下げてみる。自分の立場から考察してみる。

 狭い範囲で考察することは危険である。あらゆる角度から自分のありのままの姿を中心に置いて考えてみること。考えることは筆記具は必要としない。他人の目をはばかることもない。見聞したことがそのまま教育的立場に立って、連想が深まって行くとき、初めて本物の文が書けるものだと考える。

 花には色も形もあると同時に匂いも若さもある。生物の変化や状態を人の生活、自分の姿に照らして考える習慣が自分を豊かなものにしてくれるのではないだろうか。


18.楽しい学校

 自信のある授業は子供も楽しい。指導者の自信が子供の学習意欲をもたらす。

自信は指導者の研究意欲から生まれる。研究には必ず、つまづきがつきものである。そのつまづきは無駄なつまづきではない。必ずや授業のどこかで生かされ、跳ね返ってくるものだ。 

 一時間の授業のためにそれ以上の教材研究の時間をかけることは馬鹿らしく感じられるものであるが、それが指導者をしての資質の向上にもつながり、プロとしての力量を高めるものである。


17.身丈にあった教育を

 身丈にあった教育とは、夫々の子供の能力適性に応じた教育ということである。そして子供の発達段階に即応した教育を施すということである。

親は子供の教育に応じて、身丈に合った衣服を買って与える。衣服は目に見えるものであるために、身丈に合わないものは、大きすぎても、小さすぎても見苦しいものである。

 しかし教育となると、より以上の大きな望みをかけたり、ある程度成長しているにも関わらず幼児扱いしたりして、子供の自然の発達を阻害する恐れが多い。

教師にしても稍々(やや)もすると高度なものを施したくなるのが常であるが、十を知って六を教えるのが教師の立場である。

 要は、如何にして子供に学ぶ意欲を起こさせるか、分かり易くして誰もが容易に受け取れる指導が望ましい。それには教師自身が研修を積むことである。日々の授業に自信を持って臨むことである。

ゆとりは教師の自信から生まれるし、自信は研修の積み重ねによって得られるものである。

○教師は「教えよう」とする以上に「子供と共に学び子供から学ぼう」とする姿勢が大切

○生き生きした教育は、教師が絶えず進歩しているとき初めて可能になる。


16.「あ」すを夢見て 「お」ちこぼしなく 「い」まを大切に

 けやきの小さな葉が白い縁どりをみせて所かまわず若葉を広げ始めている。

この冬購入した欅の古木は、幹だけで果たして葉が出るかと懸念していたが、一日見ないでいると新芽が長く伸びてもう幹が見えぬ程繁茂(はんも:一面に生い茂る)してしまった。

園芸の雑誌を見ると、肥料は昨秋ほどこしたものが、現在の活力を働かせていると記されている。葉もない忘れられた時の手入れが肝心なのである。

 ともすると花を咲かせる時だけ肥料を与え、かわいがるのが人の常である。

 学級でも目立たない子供が忘れられがちである。やがて花を咲かせるであろう事を願って地味な指導を続けることが大事である。


15.仕事を成し遂げた喜び

 自分がしようとする仕事を成し遂げたときの喜びは本人のみが知るものである。きれい好きな人が塵一つなく清掃したあとの喜びは本人だけがしるものである。汚い環境に平気で生きる人には、清掃隊の整頓された居住などは気づくものでない。花を好む人が一輪の花を飾ったときの気持ちはすがすがしい。飾り方一つに気を配りつつ楽しむものである。

人それぞれ自分の気持ちから出た仕事をしたときの真の喜びは本人のみが得られるものである。

 どんな些細な事でも良い、自分の決意した仕事を成し遂げ、その喜びを味わう事である。そこに優雅な気持ちが表れ、心のゆとりが得られるものである。


14.子供は教師の後ろ姿を見て学ぶ

 教師が教室でライオンの様に吠えて進める授業程子供の受け取りは少ないようだ。

体育などは技術が優れているほど良いが、やはり指導技術が先に立つ。指導技術の要は、子供を掌中に握っていることだ。心の触れ合いだ。静かな中に堅く掌握する力を持つことだ。

 突然教師が不動の姿勢をとる時、子供は言わず語らず教師の姿勢にかえる。言葉は要らない。聞いていない子供には指を指すだけで我にかえさせる。

静中動!根気や根性は静の分野から培われる面が多い。

子供に溶け込むと同時に常時子供全体を包む技量を身につけたいものである。


13.教育は人なり

 塾廃止論が叫ばれているとき、学校として一日一日一時間一時間の授業を充実させることが課せられた任務であり、今日的課題である。

こんなに良くやっています・・・・という前にその力を日々の授業に降り注ぐことである。

父母の日は鋭く厳しい。それだけ美辞麗句や表面のつくろいは通用しなくなる。

要は教師としてどうあるべきか!

使命感を堅持して質の高い授業を積むことである。

教育は人なり!研鑽を積んだ人ほど控えめになるものである。

 謙虚な人ほど計り知れぬ力を持っているものである。力は軽はずみに出すべきものではない。自己実現に絶えざる研修を積む人こそ貯えがあるものである。

○むりのない綿密な指導計画

○むらのない行き届いた日々の授業の積み重ね

○むだのないゆとりのある充実した学校


12.教育は地味なものでなければならない

 子供を試験台にするな!とはよく言われる言葉である。それは一日一日が人間としての成長過程であり、やり直しがきかない事を物語っているのである。

 教育には美辞麗句は必要ない。セールスマンの様に父母に甘言を吐いて、こんなに努力しているのだと訴えてみてもメッキは短期間にはがされるものである。

それなのに教師はともすると独善的に陥り父母の批判がなければ良いものだと考えがちである。不満がなければ正しいものだと考えることは、世間を甘く見た考えである。

 合理化とは古きを捨てて新たなものを創り出すことではない。古きを活かし、新しきを求めて一歩一歩着実な歩みを続けてこそ教育を実りのあるものにするのである。教育は過程が大事なのである。内容が問題ないのである。

 指導の目当てに向かってそれに到達させることであるが、到達への過程が問題なのである。百メートルの短距離走に於いて出発の合図は誰にでも出来る。歩いても這ってもいつかはゴールに到達するであろう。そこに速度を要求するのが教育である。子供の発達段階に即して何秒で走らすか、どの様な過程でもっと速く到達できるかが狙いなのである。


11.味のある人間

 味のある人間は塩辛い汗や涙の中から生まれる。それは悩みや苦しみ、不幸をとことんまでかみしめ消化しているからである。

 味のある人間は、時々馬鹿と間違えられる。それは利害にこだわらず、自分を犠牲にして人のために尽くすからである。

 味のある人間は時々人に騙される。それは人を疑わず、いつもニッコリ笑っているお人よしだからである。

 味のある人間は、めったにへこたれない。それは敗北の中から泥をつかんで立ち上がることを体験によって知っているからである。

 味のある人間は、そばに人が集まる。それは気軽になんでも聞いてくれ、他人の痛みがわかる魅力の持ち主だからである。

 味のある人間は、常に健康な体の持ち主である。それは心の中が豊かで楽天的で、心を腐らせることがないからである。

 味のある人間は、八百屋の様に沢山の趣味の持ち主である。それは、すべてに心をかけ、いたわりの気持ちをもって万物を生かすからである。


10.学校経営を振り返って

 学校経営は人づくりにある。

 これは私の持論である

教育は人なり、確かに教育する人が良ければ子弟は必然的に良くなる訳である。指導者は人それぞれの能力を最高度に発揮し得る環境づくり、励まし育てる努力が必要である。しかし、実現は至難である。

就任当時は心の交流もなく、組織を通しての自分勝手な要求が強かった。内面的な触れ合いの余裕もなく、外面的な組織づくりの争いが絶えなかった。双方の立場が異なるだけに主張すべき所は主張し、法を超えぬ努力が始終脳裏を離れない。

人間、力関係からのみ対応していたら相互の破滅である。進歩もなくゆとりも生まれない。三年も過ぎると相互の誠意が認められる。相互に人間として成長しようという気風が生まれる。

後輩のためには身を賭して(犠牲となることをも覚悟して)、という気持ちが言動を超えて汲み取られる。

 人間だれしも感情を持たないものはない。相手を尊敬する心が生まれる時礼儀がそれに伴う。

相互の長所に気づき、自己の短所を補う心が生まれる。

色んな人の考えの糸が錯綜して、その中から糸口が見えだされていく。丁度機を織る姿に似ている。何本かの縮んだまゆから繰り出される糸が一本にまとまって布が織りだ成される姿に似ている。

 これまで遅々たる歩みではあるが、夫々の人が吐き出す糸を一本にして織り成す作業に至ったような気がする。


9.求める心無くして発展はない

 平穏無事の生活は夢の中に経過する。問題を持たぬ人生は味のないものである。どんな些細な問題でも、それを究明しようと努力することによって幅広い生き方が身につくような気がする。弱い人間は問題が大きくなるに従って自分の力を駆使することができなくなる。これが人生への開拓の糧であるとして問題を受け止め、努力することによって逐次問題は解決され、より幅の広い人間が出来上がるのだと考える。

■問題を穏便に解決する方法

■問題とするに足らない問題

 人それぞれ問題の受け止め方は異なる。

従って、問題を解決に導く道筋は各人各様である。

急な坂道に見えたものが、登ってみると案外簡単に登る事ができたり、平たんな安易な道を選んだが為に、却って遠回りになり、予定通り踏破出来なかったりするものである。

 要は経験を豊富にして、雑多な問題の道筋を自分のものにして置くことが大事なことではあるまいか。


8.目当てへの到達

 毎時の狙い、日々の狙い--その狙いに到達させる児童・教師(師弟同行)の努力の積み重ね。これが日々の教育であり、生涯教育を進む道筋でもある。屋上へ昇ための階段の一段一段にも似ている。最終の狙いは屋上で広い空を眺めることか。いわゆる逞しく、やさしく豊かな人間形成にある。この狙いを遠くに見て、それに到達するための個々の狙いがあるものである。階段を踏み外す子もあるであろう。目当てを誤って右往左往する子もあるだろう。

明確な狙いをかかげること、そして進行途中で確認させることが、全ての子供を目標に到達させる早道でもある。

(1)1つの階段を昇り詰めると踊り場に出る。この踊り場こそゆとりの場であり、評価の場でもある。

(2)踊り場は歩んできた道程を反省し、次の階段へのエネルギーを貯える場でもある

階段のすべり止めの工夫、歩みやすい配慮こそ教師の創意工夫である。

 1978年の階段も終わろうとしている。果たして踊り場に立ち到っているのだろうか。自分の進み越した一年を生涯教育のステップとしてとらえ、反省するものである。


7.目当てに迫る

 人間の一生は目当てがなければ味気ないものである。人によっては座右の銘を掲げて、それに迫る努力をしている者もいる。凡人の自分はこの歳になって、こんなことを考える心境になった。若い時に気づいていたら、もっとましな人間になっていたかもしれない。

 「少年よ大志を抱け」という言葉も繰り返し聞かされてきたが、どんな大志を抱くべきか身に染みて考える機会もなく過ぎた。確かに大きな志を立てて、その大志を達成するために、前段階の目当てを決め、更に前段階を達成するための小目標を立てて努力していけば、日々の生活は充実したものになり期せずして大目標に迫ることが出来るに違いない。

しかし、人生は環境に支配される事が大きいので確固たる信念の保持者でなければ目当てから離されるものである。この様に考えると少年時代の教育は人生の基礎を作るものであり、最も大事な時であると考える。

 教育の最も基本とすべきところは人間を作る事。精神を作ることである。自ら考え、自ら苦難を乗り越えられる。逞しい子の育成にある。現在の社会情勢では、目標が生活から離れ、口先だけの論理が充満し、心身が付いていかない様な気がしてならない。甘さがある。自己を見つける機会がない。

甘言(かんげん(聞き手に気持よい言葉))が人を左右している。そんな所に強い信念は育たない。

(1)一歩下がって二歩進む弾力的態度

(2)自分を責める勇気、ヒトを許す勇気、仕事を進める勇気

(3)人に接するときは春の様な暖かい心

   仕事をするときは夏のように燃える心

   物事を考える時は秋の様な澄んだ心

   己を責める時は冬のように厳しい心

(4)生きがいは常に自己の目標に向かって精進し、それが達成されたときに味わう感情である。

   言い換えれば人間一人ひとりの気質、能力が最大に発揮できたときに体得する人生の諦観

   (本質を明らかに見て取ること)である。

(5)曲がった木にもそれなりの美しさがある


6.否応なしに生涯教育

 私も生来誘惑に弱い怠惰な人間であるのに、教える立場に立たされたが故に、どうやら生涯(教育)学習をさせられた。真剣勝負である以上、否応なく自分の実力を高めてゆかねばならないのである。

 人間として「自己実現」即ち自分の人格や能力を高めていくことが最も深く生きる充実感を味わしてくれるものだとすると、教師は本来充実した人生を送るうえで、最も近いところにある職業と言えるようである。

 良くお茶の精神として「一期一会」が言われ、その時、その時、今が最後と思って真剣に立ち向かうように説かれているがこの言葉は実は教師という職業に当てはまっている。


5.愚直な人

 あまりにも正直すぎて、愚かなほどにまでひたすらで、だから機転も利かないし、融通も利かない。世俗の人から見れば、どうにも持て余すような人。そんな人はいつも時代にもいるもので、これも人間性の一面であるのかも知れない。しかし、正直すぎるのはいけないことなのか?ひたすらなのはいけないのか?機転が利かなくて融通が利かないのはいけないことなのか。よく考えてみれば、どれ一つとして非難すべきことはない。むしろ、いわゆる賢い人ばかりが多くなった今日この頃、こんな愚直な人は珠玉(「しゅぎょく」尊いもの、美しいもの)のような人であるともいえよう。

 古来、祖師と言われるような人は、本当は愚直の人であったかも知れない。だから世俗には恵まれなかったとしても、そのひたすらな真実は、今日に至るもなお多くの人の胸を打つ。愚直また、よし。この波乱の時にこそ自分に真実な道を、正直に、ひたすらにそして素直に歩むことである。


4.ブレーキを効かせよう

 ブレーキの利かない自転車ほど危険なものはない。しかしそのブレーキを操作する心、心のブレーキが利かなければ役に立たない。

心のブレーキは軽そうな行動や、衝動的な行為が突っ走る時に、それを食い止める大事なものである。人は知らず知らずに悪の道に入るものである。心のブレーキが緩んでいると悪い道に深入りをし、加速度的に、しかも限りなく突っ走るものである。その速力が強ければ強いほど、少しぐらいのブレーキをかけても止まらなくなる。こんな風になったら何かの強い壁にでも突き当たらなければ止まらない。突き当たって大きな傷害を受ければ、心のブレーキを見直す気持ちが生まれてくるが、大きな傷害でない限り、心のブレーキを見直す余裕もなく、同じ道を進もうとする。

 人間には衝動的な行為を、そして悪の道に進もうとする気持ちを未然に食い止めるブレーキが備わっているはずである。最近、そのブレーキの利かない人が多くなった。突っ走る前の点検が疎かになった。泥酔して路上に倒れる者。麻雀や競輪に凝って大きな借金を抱えて身動きできない者。悪友に誘われて、ブレーキの緩むものなど。何か事を始め、進みだした時には、このブレーキの点検をして、未然に暴走を食い止めることが大事である。


3.コツコツやろう

 ほかに優れた頭脳もない。才能もない。体力もない。財産もない。それでも良いではないか。

 自分だけがそうではない。生まれつきそういうものに恵まれているのは、千人に一人、万人に一人、あとは皆普通の人。だからコツコツやろう。1日一歩でも良い。前へ進もう。そして、その一日一日を積み重ねていこう。一攫千金を夢見たり、今日1日ぐらいはと怠け心が出るのも、普通の人間だから仕方がないけれど、そんな時でも最後はやっぱり、コツコツに戻ろう。仕事は勿論だが1日10分の勉強でも、5分間の運動でもともかくコツコツと続けていこう。

 動いているときは見えない時計の短針でさえ、1日に文字盤をぐるり2回り。1年立ば730周、毎日30分の読書が1年間に180時間を超え、月々1万円の貯金も8年余りで100万円。塵も積もればというけれど、ふと振り返ってコツコツ積み重ねてきた、その大きさに自分で驚く時がきっとやってくる。だからコツコツやろう。そんな日を心に描きながら。

 ●人並みの人間であるが為には、人並みの事をしなければならない 

 ●人並み以上になるが為には、人並み以上の事をしなければならない

 ●人間の価値は行動とその実践にある


2.相手に合った話し方

 一芸に長ずる者が、その芸を解しない者に、その芸の極意を話しても相手は何も受け取ることがない。

 むしろ自惚れの強い人だな!と、受け取られる反感を抱かれる位なものである。逆にその芸を自分のものにしたいという意欲のあるものは、その芸の表面の話を聞いただけでも飛びついてくるものである。そんな人には、やはり先輩だな!道は深いんだな!と受け取られ尊敬されるものである。

 芸に限らず相手の受け入れ態度を見極めて話を進める事が大事である。相手の受け入れ態度の度合いによって話よりも深くより広く伸展さすべきものであろう。学ぼうとする意欲を見極めて授業を展開することが、教師の力量でもある。


1.私は渋柿

 渋柿のままでいたのでは誰も食べてくれない。

 早く食べてもらうには樽柿になることだ。しかし、もし食べられなかったときは、カビが生じ、腐るときも遠くない。長く食べて貰エルものになるなら、干し柿になることだ。

 甘くなるまで、長い間かかって乾燥されなければならない。甘くなって食べてもらえなくとも保存が効く。むしろ白粉を吹く頃になって初めて干し柿としての真価を発揮する。

私は干し柿になりたい。